なぜ、生きる?

悩み、苦しみ、生きづらさを抱える皆さんと共に 移住や転職、不登校、大好きな本についても綴っていきます。日常のなかでのふとした学びや気付き、ココロの栄養のキッカケになれれば幸いです 

魂の妹へ

ディーゼルドクターイエロー


僕には二人の「妹」と呼べる存在が居ます。一人は現実世界の血の繋がった実の妹。

もう一人は精神的な意味で、「妹」としか呼びようがない、血の繋がっていない女性。

後者に宛てて書いています。

 

「兄さんはブッダなんでしょう」とか言ってくれて少しだけ嬉しかったけど、

それは買いかぶり過ぎです。俺は決してブッダなんかじゃない、

最大限好意的に解釈しても、悟りをめざす菩薩?いや、只のノラネコだ。

 

確かに俺は本来はノラネコのような自由で楽しい魂をもっている。

昔「あなたは、一生フラフラしているかもね」

と母親にも25才の時、そう指摘された。

 

でも、どういう訳か妻を娶り、子供を二人授かった。

それが、自分の運命だったのかもしれない。

 

よく、電話やラインで

「世間体やら常識だとか世間体とか(つまり、『あちら側』いってみれば建前)、形にハマって麻痺してるだけ」みたいな話をしたよな。

 

でも麻痺させているから辛うじて、社会生活が送れ、妻子を養っていける側面

があるのかもな。それが意識的なのか無意識なのかは別にして。

 

本来、人はみんな自由で楽しい魂をもって、この世に顕れたと思う。

でも、そうは下ろさないのが、この世界の

問屋

なんでなんだろうな。

妻子を養うため?、人並みの生活?その時々の世間的、社会的価値観?

経るべき試練?、運命?

 

実はみんな人間の着ぐるみを被っているだけで、フと油断して

喫煙所かなんかで正体を剥き出しにしてタバコを一服している時に

バッタリ同じように着ぐるみを脱いだクマさんやブタさんと出会ったりして…

「おやおや、あなたもですか…お互い大変ですな」なんつって

着ぐるみを脱いだら、そこには何もない、なんつーのも居たりしてな

 

 

男には「最後のロマン」がある

それは…

 

 

 

 

「妻子を捨てる事」だ、

お釈迦様はそれを実践した。

おまけに、自分の長子に「ラーフラ(障碍)」なんて名付けて

悟りを開けたからいいものの、そうじゃなかったら、

人の羨むような身分や生活を捨てた

社会的、世間的、物質的な見方に於いては

とんでもない、大馬鹿ものだ。

 

俺は今のところそれを実践するだけの覚悟も度胸もない

妻を始めとする家族にキッチリ白旗を挙げた。

 

魂や精神の源は「こちら側(本質や本音といった世界)」に留めて置きながらも

「あちら側」と渡りあっていくしかない。

 

その為に…

 

ブログを書いていたり、寝てる時以外は…

「人間の着ぐるみを被る」という方便を編み出した

 

人間の着ぐるみを被るノラネコも

猫を被る人間も…

究極の意味では一緒なのかもしれない…