なぜ、生きる?

悩み、苦しみ、生きづらさを抱える皆さんと共に 移住や転職、不登校、大好きな本についても綴っていきます。日常のなかでのふとした学びや気付き、ココロの栄養のキッカケになれれば幸いです 

52才妻子持ち、転職☓☓回、未だに無職… どうする、俺? #15 ーcanon AE-1proglamで撮影ー

 



ぼくの人生に於ける一番の極限状態、それは中学3年生の夏休み、14才の時だった。

 

出発の二日前、御巣鷹山日航機の墜落事故があった。

 

あさ早く家を出発、住宅や店舗が並ぶ馴染みのある町中を抜け

国道411号線をひたすら西へ

奥多摩湖畔を通り、柳沢峠を超え甲府盆地に入って何泊か野宿をして、

帰りは国道20号線を東上して東京へ戻るという計画を立てた。

 

その当時、僕はルアーでのブラックバス釣りに熱を上げていて、

友達と連れ立ったり、時には一人で奥多摩湖まで何度も自転車で、走破していた。

 

そして両親はかなり高価な自転車を買い与えてくれた。

(その自転車はいまではボロボロだけど、実家の2階の

ベランダに死蔵されている)

 

今、振り返ると…

かなり無謀な計画だった。自転車屋さんも

「多分、やめたほうがいいんじゃないか、

1400m級の峠は今の君には無理だよ」

もし、逆の立場だったら父として僕は息子の旅立ちを許しただろうか

 

そんな事を考えつつ、ハンドルを握る。

沿線の無人駅、見覚えのあるお店や景色や様々な思い出を楽しみつつ

ゆるい上り坂を往く

 

奥多摩湖の入り口にあるビジターセンターでトイレ休憩、

妻に帰りの予定時刻をメールする。

 

左手に夕陽を濁った白さで反射させている湖面をたまに見つつ、

クネクネとしたワインディングロードを慎重なスピードで駆っていく。

 

湖がどんどん細長くなり、

ほとんど緩やかな沢のような様相を呈している。小6の秋、

僕と父はそこでキャンプをしながら釣りをした。父は竿を何本も立て鯉を狙い、

僕はルアーロッドを片手にウロチョロとブラックバスの魚影を目指した。

 

その記憶がありありと蘇る。

 

そして、その時こそ父子の一種の別れの儀式だった。

 

左右の山肌がどんどん迫ってくる、キャンプ場や管理釣り場や、民家が立ち並ぶ

集落を超え、武田家の軍資金の源である金山の秘密を守るため

多くの遊女が酷いやり方で命を奪われた伝説のある淵を通り過ぎる

 

民家が見えなくなって30分ほど走っただろうか

当時、雨宿りをしつつ休憩した、木々の列を未だに覚えていた。

 

 

38年前

嫌な予感が当たってしまった。

出発した時は気持ちのいい晴れ間だったのに、段々と空が暗くなっていく。

やがてポツポツと雨が降ってきた。そして、どんどん雨足が強くなって

視界が曇るくらいの土砂降りになってきた。

 

閃光は見えないが、近くてものすごく大きい雷鳴が轟く

その度に木々の枝も僅か震える。

 

「直撃なら俺死ぬな」なんてリアルな恐怖を覚えつつも

前へ前へ、時には自転車を降り、歩いて自転車を押す。

 

周囲は白く靄がかかる。識別できるのは、木々の灰色の幹や枝

そして葉っぱの緑だけ。

 

ただ、空と山の境目が徐々に低くなってきたのは感じる。

でも何度も何度もカーブを曲がっても、そこに見えるのは延々とはるか彼方まで

続く坂だけ、それでもめげずに前へ、前へ

ペダルに体重を掛け、時には降りて二本の足を交互に踏み出す。

 

雨合羽を来てはいたが、感覚が麻痺して暑さも寒さも感じない

大粒の雨が体を叩くのを僅かに感じるだけ、

 

 

 

 

 

 

 

どれくらいそんな時間の中を懸命にもがき続けただろうか、

運命のその時は来た

 

緩やかな右カーブそれを曲がり切ると

 

 

 

 

 

 

 

 

「空が切れた」

 

 

 

 

 

 

峠だ。やった俺は登りきった。